歴史と伝統

 言い伝えでは、明治時代の欄間ですが、二対で一個ではありません。手作りの職人芸とは、明治時代が、最後であって、産業革命以降は、いつの間にか沈んでいったのではないかと思います。
一対の鴨に対する波の表現にしても、型版には当てはまらない技法が確立されています。波の表現としては、波状的と言えます。
武士道とは、荒々しい戦のイメージばかりが、先行していますが、鴨欄間の原点として、堅い木材を切り出して、丁寧に作品に仕上げる忍耐力がなければ、難しい問題です。波の表現にしても、骨の折れる仕事の一つだと表現しているのです。 (画像クリックで拡大)

 国宝松本城にしても、長い間の風化によって、みそぼらしいものになってしまったのか? 熊本城や名古屋城の変貌に比較するべきだが、白人の観光客が、いやに多い。
長い間の風化した筈の松本城とその風土が、イギリスのバイキングの城に似て非なるものなのかな?ローマ観光は、カルチャーショックを覚えたのだが。(画像クリックで拡大)

「昭和41年の川合勇太郎著の草津温泉史話」の抜粋ですが、松代藩主の真田幸貫に信任された佐久間象山が、硝石の製造のために、草津温泉の古久長旅館に滞在した時のエピソードが、書かれています。厠に入る時も、決して刀を手放さなかった幕末の殺伐とした史実は、今日の旅館業とは、全く異質な文化的な当時の日本の価値観なのです。王政復古を錦の御旗に掲げていた薩長同盟の維新の士らの陰謀による誅殺によって、京都で無念の死を遂げた松代藩の佐久間象山の伝説です。
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 神戸大学法学部名誉教授の蓮沼 啓介氏が、 「蘭の下の漢字が、判らない。落款が、判らない。」と言われた2006年の夏休みの草津温泉から、十数年の月日が経ちましたが、蘭が、血の色に染まり(2014年のオランダ人の医学研究者らが搭乗していたサンストペテルブルグ行きの旅客機をロシアの戦闘機が、撃墜した事件)、その後、ロシアの首脳らが、日本に来日した事実について、(士は、己を知る者の為に死す。)
成る程、昭和44年東大法学部学科全優、国家公務員試験次席にして、大蔵省入省にしても、お上の書かれた掛け軸の意味を計りかねたかな?
蓮沼氏が、昭和60年に国費留学した英国オックスフォード大学では、知り合った教授が、先祖代々オックスフォード大学の教授だったと述べています。インターネットで、蓮沼啓介氏らしき人物の載せた最近の文を読みましたが、国会に関して、かなりユニークな政治議論を展開しています。(画像クリックで拡大)

 古久長旅館は、湯畑そばの滝下通りに所在し、その外観は、旧街の保存区域に認定されています。その外観は、歴史的な風情を醸し出し、観光客の旅情を掻き立てています。例えばイタリア・ローマの旧市街地を散策すれば分かりますが、歴史のあるもの程、価値があるのは世界の常識です。「古きを尊び、新しきを知る。」という格言がありますが、草津温泉ならではの風情を世界に紹介しております。古久長旅館は、お客様が、古き旅情に触れながら温泉を味わい、思い出のアルバムの1ぺージに花を添えられるように願っております。

 幕末の佐久間 象山は、硫黄から火薬を製造する目的で、草津に度々来草した際に、当古久長旅館を常宿にしていた事などが、旧吾妻郡誌に書かれています。

 小堀遠州は、歴史的には、羽柴秀長の家老の家に生まれ、家督を相続して、 駿河城改修や松山城の再建等、各地で建物の新造や修繕を務め建築家や造園家として名を馳せただけでなく、文人、茶人としても有名で、今日の小堀遠州の茶道の各流派は、それぞれ武家茶道家元として、近世の日本を代表する小堀遠州の流派を家督相続しています。この歌は、遠州流の家督を引き継いだ小堀正和の直系の小堀氏が、古久長旅館を一時定宿にしていた際に、書き残したものですが、『古久長』と云う字句が、引き立っています。私共は、お客様をもてなす和の心を大切にしてきました。そしていつまでも、その心に灯り火を燈してまいります。

旅館という文化。

  温泉旅館は、日本独自の文化であると言われています。日本国内には、数千軒以上ありますが、どれ一つ同じものはありません。宿には、各々独特の個性があります。温泉にしても、湯畑源泉とその他の源泉では、同じ草津温泉でも湯質が、異なるのです。 温泉は、とても不思議な鉱物です。温泉の湯脈は、地下に潜るのです。地下水は、地上に湧き出ますが、温泉は、地下に潜る。比重も勿論関係していますが、地下に潜った湯脈は、測定出来ません。水脈は、地上から装置測定出来ますが。何故湯脈は、測定出来ないのか考えたら不思議です。当館の歴史ですが、明治2年に再建された現在の土台は、1本のくりの丸太で作られています。これは、建築関係の仕事の方に聞けばわかりますが、江戸時代の頃の豪商や豪農の邸宅や蔵に使用されていたそうです。
くりの木は、丈夫で長持ちしますが、今日ではあまり使用されていません。
また、古久長旅館の玄関の上がりかまちは、ケヤキの丸太をくり抜いて作られています。
広間の柱は、いちいの木の一本柱を使用しております。日本文化とは、木が命です。

 昭和20年8月15日は、日本がポツダム宣言を受諾した日ですが、日本は連合軍に降伏し、新たな歴史が始まりました。当時GHQ(連合国軍総指令部)は、木造3階建て以上の建築物をすべて解体せよという指令を出していました。つまり、日本の文化財級の建物は取り壊せというものです。これには、政府は反対しました。いくら日本が戦争で敗れたとはいえ、長い歴史のある建造物まで解体するのでは、将来も被占領国としての国辱にまみれるという事になりかねません。
政府与党が、GHQ指令から守った事は、歴史上有名な話ですが、当古久長旅館は,明治2年再建の木造3階建ての建物であったのです。こうした建物は、現在では指で数えるほどしかありません。歴史的な荒波に揉まれながらも今日まで存続してきたのです。

 大日本正菊協会の英語版の英訳文は、誰が書いたのですか?恐らく英米人だと思います。当時の判断力について、甘さがあると思いますか?確かに、北の果ての人の強さは、合理的に説明するのは、難しいですが、あの時代の英国人は、古代エジプト文明の発掘作業に追われていて、当時のまだ未開だった日本をマークしていなかったのではないかと思います。日露戦争の捨てゴマ程度にしか思われてなかった。欧州の価値観とは何か?日本人に解るのか?古代ローマやエジプト文明に価値を見出だす懐の深さは、日本人にあるかな? ISのテロリストの戦いにしても、西洋人が、他の民族をいかに知的に恫喝懐柔してきたのかを理解しなくては、意味が無いのです。無意味な浪費をするのは、愚か者だけだとしたら、やはり西洋文明は、当時の侍の文化が、遥かに見上げる価値のあるものに違いありませんね。

写真の毛利邸や大隈邸での菊花の観覧でも、近代資本主義の確立と当時の為政者の資産が、深い関係があった事が、解りますね。国家独占資本の礎です。

【江戸後期の菊花の番付。】まるで、大相撲番付の様です。大相撲は、今日も隆盛ですが、菊花の番付は、姿を消しています。
菊名を調べましたが、【京の女郎】なんていう菊名もあります。粋で風流なという意味でしょう。
 中山恒三郎氏の【菊の香】は、当時の大日本帝国議会や宮内庁が、バックアップしています。天覧の当時の価値は、宝石類とは異なる次元の価値ですが、当時の大日本帝国議会は、震えが止まらない程の価値を有していたのかも知れません。

【秋香】大日本帝国議会の内閣総理大臣 桂 太郎の直筆です。 威風堂々とした貫禄が、書道に滲み出ています。
宮内大臣の直筆の書体は、鑑賞する芸術品としての品位があります。公家と武家の違いが、ハッキリしていますね。

 戦前は、華族なる華麗な一族がありました。当時男爵であった、水戸黄門の角さんの血を引く中山備前守は、長蔵(古久長旅館)を隠れ屋敷にして、たびたび草津温泉を訪れていました。
この中山備前守の血を引く中山男爵は、明治・大正時代に当時首相であった桂 太郎公爵や宮内大臣 渡辺 千秋子爵などと共に゛大日本正菊協会゛という天皇制を奉る会を主催していました。中央競馬会主催の゛菊花賞゛などは、その名残ですし、中山競馬の中山と深い関係があるそうです。
時代が変わり、人々の価値観が多様化したのにもかかわらず、何故歴史などを学ばなくてはならないのか?この菊の培養とは、淘汰育成のことなのです。

 明治初年の大火で、草津の大半は焼失しましたが、その後の再建の建築物が、草津では最も古いものです。
明治二年に再建した時に製作されたこのせがい出し梁の家紋は、草津のあまたある建物の中では、最も古く、又由緒正しいものです。

 古久長旅館のルーツは、長野県沓野の与頭、長蔵です。村方三役は、名主、組頭、百姓代ですが、農民の支配機構として、領主の代わりに代官や郡代がおり、農民は統制支配下に置かれていました。
 与頭長蔵は、現在の渋峠を最初に切り開き、草津温泉にやってきました。光泉寺の入り口の階段の脇には、一対の燈籠がありますが、これは天保十四年に小林 長蔵が寄贈したものです。湯畑の奥の光泉寺の入り口の階段の脇にひっそりと佇むこの一対の燈籠は、何世代にもわたる時代の推移をじっと見守っているかのようです。

 左の記事(「草津公民館報」より抜粋)は、先代の女将による草津公民館報への投稿記事でございます。
明治二年(1869年)に発生した草津町の大火でも難をまぬかれた当館の倉について、
また、江戸幕末の頃、松代藩に依頼されて、硫黄から火薬を取り出す技術指導に佐久間 象山という歴史的な学者が、古久長旅館を常宿にしていましたが、その時のエピソ-ドなどが、記されています。
左記の文章は、群馬師範学校(現群馬大学教育学部)を卒業した先代の女将が、エピソ-ドを綴ったのですが、草津温泉の歴史の証人として、独特の味わい深い文章が綴られています。
いつの時代も移り変わりますが、時代の推移とは、否が応にも受け入れざる得ないという明治生まれならではの達観が、特に込められていると思います。

 左の写真(「温泉にっぽん」より抜粋)は、今の鷲の湯庭園になる前に共同浴場として利用されていた頃の「鷲の湯」でございます。
この写真を見てもわかるように鷲の湯の奥に古久長旅館の「久長」の文字が見え、歴史を伺えます。
【時間湯の伝統】
 時間湯は、ご存じの方が多いと思いますが、湯長の指示に従って、温泉に入浴します。入浴中は、草津節などを皆で歌いながら、時が経つのを待ちます。温泉の温度は、48度くらいで、熱い湯です。 草津温泉は、古来より万病に効くと言われていますが、特にアトピ-性皮膚炎などは、短期間で劇的な効果が得られた事が証明されています。女性の方で、温泉入浴後は、お肌がツルツルになったという話はよく耳にしますが、難病アトピ-性皮膚炎は、体内に蓄積された老廃物などが原因で起こりますので、熱い温泉に十分につかり、汗を流す事で、体内の老廃物を燃焼できます。入浴後は、ゆっくりとリラックスしながら時を過ごすのが良いでしょう。元 時間湯は、摂氏100度以上の熱湯を頭から被るという荒々しい苦行ですが、今日では、行われていません。一般の温泉客は、湯の温度が45度付近に上昇すると、『熱いから入れない。』と苦情を寄せます。 しかし時間湯の温泉の温度は、最低でも100度の熱がなければなりません。勿論摂氏100度の高温の温泉に入浴する事は、非常に危険性も高い訳ですが、一か八か時間湯に賭ける事で、梅毒等当時の不治の病を克服した人々も実在したのです。 仏典にも登場する草津の名湯の歴史とは、病院の無い時代に名医に代わる稀有な存在としての存在感を際立たせていたに違いありません。

草津節は湯揉み唄から・・・
日本武尊が東征の折発見、また鎌倉時代には源頼朝が入浴したとも伝えられる古い温泉地です。若山牧水も湯揉みの歌をつくっています。
草津温泉は「時間湯」という独特の入浴法があり、この時間湯の湯揉みの時に歌われていたのが「草津よいとこ一度はおいでドッコイショ」というあの草津節です。
現在の歌詞の原形は大正7年に草津を訪れた平井晩村の作といわれています。
鷲の湯庭園に草津節発祥の碑が建てられています。
是非お越しの際にはご覧くださいませ。

 当時は、ストーブも炬燵もなく、寒くなると暖房器具として火鉢を燃やしお客様に暖をとって頂いておりました。
桐の漆塗り(螺鈿入り)の火鉢は当時、とても高価な品物であったと聞いております。
今は、その役目を終え、灰皿として使用しています。

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